第9章良い記憶 vs 悪い記憶
継続的な知恵のレッスンとしての人生
理性的な人間のゴールは、知恵を求めることだ。本当のことを言えば、知恵はどこにでも存在し得る。しかし、それが実際に存在しているとは限らない。知恵を抽出できる最大のレッスンとは、人生というレッスンそのものだ。人生は常に君に教えている。ただ、君がいつも注意を払っていなかったり、学ぶ気がなかったりするだけだ。幸いなことに、記憶というものが存在する。君の人生で起きた出来事が、現実に君のパーソナリティ(人格)を定義している。これこそが、私たち一人ひとりが唯一無二である理由だ。
私たちの子供時代の恐怖の根源
私たちは恐怖について話してきた。ほとんどの恐怖は子供時代に端を発している。親が君を行儀良くさせるために、何かで脅したことから始まるのだ。これを「初期の恐怖」の一種と呼ぶことができるだろう。これに伴い、最初の「初期の疑念」も付け加えられた。君の先生であるはずの親が、本当は君のために最善を尽くそうとしていたのに、自分たちの快適さ(都合)のために嘘に頼ってしまった事実は、いくぶん悲しいことだ。

小さな嘘が残した爪痕
最初の大きな嘘は、「お行儀よくしないと、お化け(ブギーマン)が来て連れて行かれるよ」というものだ。「全部食べないと大きくなれないよ」というバリエーションもある。遠い昔のことのように思えるかもしれない。しかし、君はその記憶を「悪い記憶」として記録した。そして、記録された脅威から自分を守るために、そこから習慣を築いたのだ。そこから、ルールに従って「良い子」にするための環境を作り上げた。君が思い出せない記憶はたくさんある。君はそれらを「忘れた」と呼んでいる。
潜在意識に保存された記憶の力
しかし、それらは忘れられたのではない。注意深く保存されているのだ。それらは君の理性的な心の調査対象には上がってこない。しかし、潜在意識はそれらすべてをアクティブ(活性化状態)に保っている。では、記憶がどのように君を助けるかを見てみよう。間接的にだ。なぜなら、それらは君の未来を投影するからである。未来は、君の現在の決断だけで影響を受けるのではない。すでに何かが起きている。決断を下す人間である「君の構築」がすでに行われているのだ。だからこそ、過去が君の未来を定義する。
未来を形作るために過去を変えろ
より正確に言えば、過去が君の意思決定の特性を定義した。したがって、次の決断は過去に記録されたこれらの特性に従うことになる。しかし、過去を変えれば未来を変えることができる。君のいかなる決断も新しい過去になる。そして、もし君の決断が以前のパラメータ(前提条件)を打ち破るなら、未来はより予測不可能なものになり始める。君はいつでも、何時でも過去を変えることができるのだ。
自己知への旅
そのためには、自分自身を知り、自分の過去を知らなければならない。良い記憶と悪い記憶の両方を再起動(リアクティベート)して理解するんだ。自分が誰だったのか、それぞれが君をどう変えたのか、その後どう発達したのか、そして今それらをどう変え、どう発展させられるかを見るのだ。
記憶の魔法
幸福の瞬間が持つ内なる力
記憶には良いものと悪いものがある。良い記憶は君にエネルギーを与え、気分を変え、喜びと自尊心、そして力で満たしてくれる。多くの知恵が隠されている興味深い映画を引用しよう。ハリー・ポッターは「エクスペクト・パトローナム(守護霊よ、来たれ)」の魔法を教わった。この魔法はどう機能したか?自分をとても幸せにしてくれた強力な記憶を探し出し、呪文を唱えるのだ。その魔法は、すべてのネガティブなものを追い払い、君を守ってくれる強力で揺らめく波のようだった。
自分だけの光の盾を創り出す
もし君がその記憶に完全に身を委ね、他のすべての思考を消し去るなら、現実でもまったく同じ種類の魔法をかけることができる。君に本当の幸福を感じさせた記憶を使うのだ。記憶の細部の中に漂ってみるんだ。あまり良い例ではないかもしれないが、初めて自転車に乗ったときのこと。それはオーラのように君の前に現れる。ハンドルを見つめる自分が見え、どのようにペダルを動かしたかが分かり、顔に当たる風を感じ、前へ進むために踏み込んだ圧力を思い出すはずだ。
失われたすべての感覚の再発見
君は記憶のすべての細部を起動させ、完全に解き放たなければならない。空がどんな様子だったか、雲がどんな色や形をしていたか、空気の中にどんな香りが漂っていたか、周りに何があったか、ペダルを漕ぎながら何を見たか、朝だったか夕方だったか、道で人に会ったかどうかを思い出すんだ。第二に、君の身体はすべての感覚を記憶している。筋肉の緊張、ペダルを漕ぎ切った成功の感覚、膝の屈曲、おそらくはヘルメットによる擦り傷さえも記憶しているのだ。

未来は過去の分析から始まる
記憶にその魔法を発揮させるためには、これらすべてを肉体的に感じなければならない。君は常に自分の記憶を研究する必要がある。エクササイズ(訓練)を通じて初めて、隠れている記憶を理性的な心の光の下へと引き出すことができる。自分の過去すべてを研究して初めて、自分が何者か、何が自分を定義しているのか、そしてその理由を理解できる。その瞬間、君は未来が自分の選択であることに気づくだろう。現在の延長線上にある未来が見え、それに満足するかもしれないし、しないかもしれない。しかし、君にはそれをいつでも変える可能性があるのだ。
記憶運用の技術:いかにして過去を力の源に変えるか
過去の経験のバランス取れた分析
どれほど簡単そうに見えても、私は君に「そんなことはない」と言っておく。ここでもまた、ポジティブ(陽)とネガティブ(陰)の分析を伴う、忍耐、粘り強さ、そして一貫性のレシピ(処方箋)が必要になる。特に過去を研究しすぎると、その傾向は強まる。君は現在を忘れてしまったり、現在を嫌悪して性急な決断を下したりするリスクを背負うのだ。だからこそ、ポジティブな記憶とネガティブな記憶を「同時に」探すことで、記憶の道へ踏み出すことを勧める。それがどのようなものであれ、各記憶に番号をつけ、分析しろ。それがどう君を助け、どう君を変えたのかを見るんだ。
過去はいかにして私たちを形作るのか?
ポジティブな記憶がどれほどのエネルギーを君に与えてくれるか、あるいは、君が「二度とこんなことはしない」と言ったときに、ネガティブな記憶がどれほどの重荷を君に背負わせ、何を奪い去ったのか。君の記憶は、実のところ君の意識のエッセンス(本質)であり、君を定義するものそのものだ。もしそれらについて考えず、アクセスもしなければ、忘却の塵がその上に積もってしまう。そうなれば、それらを使って役立てるために、再び光の下へと引き出すことは困難になる。なぜなら、それらを引き出すことこそが記憶の役割だからだ。そこから学び、使うために。

君の内側には学ぶ力がある
記憶とは、実のところエネルギーの武器だ。それは自己尊重と自己信頼の源泉である。君が勇敢に状況に立ち向かい、成功を収めたとき――それらは絶対に忘れてはならないレッスン(教訓)だ。記憶をただ体験することと、その中にあるレッスンを理解することは、まったくの別物である。自分の持っている「荷物(バゲージ)」を分析し始めると、ネガティブな記憶の方がはるかに明確に定義されていることに気づくだろう。君の生命体は、その偉大さゆえに、将来君がそれらを回避できるように、分析の最前線にネガティブな記憶を引き出して君を助けようとしているのだ。
困難な記憶の影に隠された宝物
最も頻繁に見られる過ちは、記憶の持つ利点(アドバンテージ)に移行せず、ネガティブな感情状態のままそこにとどまってしまうことだ。そこから何を学んだか、それがどれほどの強さを君に与えてくれたか、どうやって乗り越え、どう闘い、どう回復したか。これらこそがネガティブな記憶の持つポジティブな側面である。なぜなら、実のところ無駄な記憶など一つもないからだ。それらはすべて、自分自身について学ぶという目的のためにそこに存在している。君はそれらを、ネガティブな側面や苦しみから切り離して見つめなければならない。
君自身の強さという要塞の礎石
論理、決断、過ち、文脈(コンテキスト)を見極め、感情を見るのは一番最後にしろ。君は自分の強さと適応力の視点から物事を見なければならない。「過酷だった、だが私はやり遂げた。なぜならそれこそが自分だからだ。適応力があり、機転が利き、忍耐強く、強固な生存本能を持っている人間、それが私だ」と言えるようになることだ。自分が何者であるかを知っていれば、世界が君について何と言おうと、そんなことは微塵も関係ない。
消去された記憶、あるいは忘れられた記憶
記憶が記録されるメカニズム
通常、記憶の中でも最も強烈なものが心に強く記録される。それは当然のことだ。なぜなら、それらは恐怖に結びついており、回避パターン(アボイダンスパターン)を通じて思い起こされるからだ。まさにその理由から、ネガティブ(陰)な記憶の方が強く感じられる。そして実際に強い。なぜなら君は、ポジティブ(陽)な記憶を同じくらい頻繁に思い出してこなかったからだ。自分が幸せだったことを記憶するための活動を構築してこなかったのだ。それとは別に、たとえ君を幸せにする活動を行ったとしても、記憶によれば、それは時間の経過とともに輝きを失い、少しずつ平凡な日常の活動へと変わっていく。君はなぜそれを未だに続けているのかという理由を忘れてしまう。なぜなら、自分が幸せだったことを忘れたとしても、そこに危険はないからだ。
なぜ私たちは自分を傷つけるものをより簡単に思い出すのか?
そうではないか?なぜ君は頻繁にネガティブな思考を抱き、うつ病のような傾向(ディプレッシブな素因)を持つと思うか?ネガティブなことを記録し、ポジティブなことを忘れてしまうからだ。一線を引いて(帳尻を合わせて)みれば、明確なネガティブの荷物(バゲージ)と、霧の中にあるポジティブな荷物があることに気づく。まるでそこにそれがあったかのように、あるいは自分がこれやあれをやるのが好きだったかのように。そして君は問いに突き当たる。「自分は本当は何をするのが好きなのだろう?何が自分に喜び、満足、幸福を与えてくれるのだろう?」と。これが、自分が幸せになる方法をすでにたくさん知っていることを考慮せずに、物事のバランスを取ろうとしている君の姿だ。しかし今の君は、それらをもうやらないための「言い訳」を探しているにすぎない。

君は幸せになるために必要なものをすでにすべて持っている
快適さは犠牲を要求し、幸福を奪い去る。快適さは幸福ではない。例を挙げよう。子供の頃のボール遊びだ。君に快適さはなかったが、幸福だけがあった。今、君は様々な理由でその記憶を再現することができない。もう体力がない(形が崩れている)という理由――かつてはもっと太った子供たちでさえ外に出て遊んでいたことを君は忘れているというのに。もう一つの言い訳――時間がないということ。時間が足りなくなるのは、誰か他の人間が君のスケジュールを決めている時だけだ。あるいは「遊ぶ場所がない」 ―― 本気で言っているのか?それについては、ここではあえて答えを出すことすらしない。
自分の喜びとの鬼ごっこ(かくれんぼ)
おそらく君は「一緒に遊ぶ人がいない」と言うだろう。それは良い思考(着眼点)だ。確かにその通り、君にはいない。人々は快適さを好み、もう遊ぶような年齢ではないという言い訳を使うからだ。(実際には、彼らはもう幸福を必要としない年齢に達した、と解釈すべきかもしれない)。これが君の友人たちの正体だ。彼らは快適さを選択し、君に「こんな馬鹿げたことはやめて、何もしないことを尊重しろ」と促してくる。君は自分に最大の利益をもたらす決断を下すことができる。もしそれがどれか分からないなら、この基準を使うといい。年老いたときに「物語を語ることができる決断」、すなわち君が「実際に何かを行った決断」だ。
消去された記憶、あるいは忘れられた記憶 ―― つづき ――
他者との関係における個人の責任
次なる問いはこうだ。「自分には正しい友人がいるだろうか?」そんなことを考えるな。それは彼らの落ち度ではない。君の責任だ。なぜなら、ある時点で君が社交(ソーシャル)を止めてしまったからだ。君は壁を築き、誰も君のことを知ることができないようにした。新しい人と出会うのを止めてしまったのだ。これは、ネガティブな経験や失望、避けられない裏切りの結果として、当然のことに思えるかもしれない。しかし、その論理も間違っている。
変化する世界の中で、いかにして不変性を求められるのか?
君も含め、すべての存在が変化することを考慮するなら、なぜ新しい変化が古い関係を維持してくれるなどと思い込めるのだろうか。あるいは、変化した人々が以前と同じままでいてくれると、なぜ仮定できるのだろう。人は良くも悪くも変化する。どういうわけか、君はある時点まで、彼らが悪い方向へ変化することを予期していなかったのだ。友人が君を裏切ったか?現実には、彼らはただ自分の利益を追い求めただけにすぎない。彼らは現実に君を裏切ったわけではない。結局のところ、彼らは君と誓いを交わしたわけでも、契約書(コントラクト)にサインしたわけでもないのだから。

自分を許し、再び架け橋を築く力
過ちを犯したり、君に悪影響を及ぼす問題を引き起こしたりした人々に失望したか?誰だって過ちを犯す。君も、彼らも、私もだ。もし彼らが失敗し、君がその結果の不利益を一部被ったとしても、友人であるなら、それは現実に普通のこととして受け止めるべきだ。それなのに、君はきっとプライド(尊厳)を盾に反応し、自分の分の代償を支払い、そしてその状況の原因となった友人の電話番号を消し去ったのだろう。この論理を続けることもできるが、もう言いたいことは分かったはずだ。
共有されたエッセンスの魔法を受け入れること
君は世界に対して、不変であること、物事が変化しないことを求めた。永久的な変化によって定義される世界に対して、それを求めたのだ。それこそが君の過ちだ。自分の過ちを認め、自分を許し、間違えた部分を修正しろ。社交をブロックし、新しい人と出会うのを止めてしまったことは正しいと言えるか?君は「友人」を持つことから、傷つけられないように警戒して距離を置く「ただの知人」を持つことへと移行した。自分の情報を多く知られないように細心の注意を払いながら。それなのに君の結論は、「一緒にいて居心地が良い友人が欲しい」というものだ。しかし君は、苦楽を共にしてくれる友人を排除している。良い時だけを共にするような友人を……。問題が起きた時、君は自分だけに頼ることを好み、相手にも同じことを期待する。名誉なこと(プライド)かもしれないが、遠い展望(パースペクティブ)に欠けている。
遠い展望に欠けている?
展望に欠けている。なぜなら、新しい友人を受け入れるたびに、君は自分自身に少しの適応を強いることになるからだ。それは君をより良くすることを強制する。しかし君はただ、快適(コンフォート)でいたいだけなのだ。変化とは適応を意味する。君は根本的に、適応することを諦めているのだ。共に生きた誰かと共有したすべての記憶は、魔法のようなものである。実質的に、君のエッセンス(本質)の一部と相手のエッセンスが共有されているのだ。(記憶こそが、君が何者であり誰であるかを定義しているのだから)。
決して忘れられない記憶:愛の力で孤立を克服する方法
記憶の力による永遠の絆
愛する人の喪失について少し話そう。友人から距離を置くテーマに関係している。愛する人々は決して本当に消え去らない。彼らは当時のまま、正確に君の記憶に残り続ける。共に創り上げた記憶を忘れない限り、彼らは君を置き去りにしない。追悼は、まさにこの記憶のために存在する。親愛なる存在の他界は、新しい記憶をもう追加できないという意味だ。だが、すでに心にあるものを消し去ることは誰にもできない。
いかにして私たちはコミュニティを通じて痛みを癒せるのか?
大半の人がそうするように、自分を孤立させれば、喪失の苦しみははるかに強烈になる。冷徹で数学的な計算をしてみよう。君が1人の親友を失ったとする。君には全部で4人の友人しかいない。もし友人が30人いたなら、その喪失感はこれほど極端にはならないはずだ。なぜか?単に数の問題ではない。記憶を共有しているからだ。多くの友人に分配された君の愛は、受けるダメージ(インパクト)が少なくて済む。さらに、共有された苦しみと記憶は、前へ進むための大きな力になる。
君の心は開かれ、保護されるに値する
もし友人が3人しか残されていないなら、君は愛情全体の25%を失ったことになる。それとは別に、君は自分たちの終焉も近いのではないかと思い始める。これは人生に泥を塗る、暗くネガティブな思考だ。孤立するという決断の結末を理解してほしい。苦しみから自分を守ろうとすることで、君は自分自身の道を閉ざしてしまったのだ。

愛で耕された魂の庭
失望を避けるために、君は愛することをどんどん減らしていった。その結果、喪失は君の魂と心そのものから大切なものを奪うようになった。美しい記憶は、他者と共に築かれる。同じ人間である必要はない。しかし、記憶を創るためには、関係を発展させる努力が必要だ。誰もこれを強制していない。プレッシャーを取り除き、基準を下げろ。多様な人々を友人に迎え、同時に君も彼らの友人になるよう努めるんだ。
無条件の愛こそが自由への鍵なのか?
また、できる限り多くの存在を愛せ。好ましくは、できるだけ多くの生命をだ。それが人間であれ、ペットであれ、君が話しかける木々であれ関係ない。重要なのは、たった一人の人間だけでなく、愛で満たされた心を持つことだ。たった一人に対するそれは、依存(デペンデンシー)と呼ばれる。
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