第5章 - 宗教と信仰
何かを信じるということ
君の心の武器庫にある最も強力な武器は、おそらく「何かを信じる」という可能性そのものだ。それは人生のどんな瞬間でも、特に最も過酷な試練の時に君を救い、日々のエネルギーを与えてくれる。それは帰属意識をもたらし、君の行動を導く。しかし何よりも、極めて高次元で強烈なレベルの内なる平穏を、君に授けてくれるのだ。
君の奥深くに眠る穏やかな海
この次元に達すると、君は広大な海のようになる。波が動くのは表面だけで、深海ではすべてが驚くほど静まり返っている。現在や過去の宗教について語るなど、実に不条理なことだ。なぜなら、それらはわずか数千年の「宗教的進化」の結果にすぎないからだ。現代の宗教はもっと古い習わしに便乗し、それらを様々な祝祭へと変えた。一言で言えば、それらを吸収したのだ。
変容の短い歴史
このプロセスは、新しい信者を獲得することを目的とした「宗教的統合」と呼ばれる。儀式や祝祭が盛大であればあるほど、より多くの信者が集まった。宗教は人間によって創られたか、あるいは人間によって大幅に改変されたものだ。これを証明する最大の論拠は、「宗教的独自性と真理」という概念にある。ほぼすべての宗教が、自分たちの言葉だけが真実であり、自分たちが崇拝する者だけが真の創造主であると個別に主張している。

言葉や規則を超えて
「彼らに比べれば、残りの宗教はすべて嘘であり、他の宗教を信仰する者は誰であれ、様々な地獄で様々な苦痛を伴い、永遠に苦しむ運命にある。」第二の大きな論拠は、その宗教組織を誰が率いているかに関係している。人間だ。「唯一の真理」を他の人間に教えているのは、ほかならぬ人間なのだ。読者の皆さん、宗教とは学ぶものではない。心で感じるものだ。
信じることを選ぶ内なる決断
何かに対する信仰は、耳にしたり、語られたり、繰り返されたりする議論から生まれるものではない。何かを信じるということは、君が善と悪を分析し、検証した上で行う「内なる決断」の後に訪れる。そして初めて、「私は信じる」と言えるようになるのだ。なぜなら、これこそが「宗教」から「信仰」への移行だからである。それには、個別に設定された規則を伴う精神的プロセスが必要だ。そして、理性的な人間が決断を下すためには、検証されたデータと情報が不可欠なのである。
自分を信じること - パートI -
何かを信じるということは、自分自身から始めれば魔法のようなものになり得る。自分を信じるんだ。何をどのようにやろうとも、良くも悪くも、君はなんとかやり遂げることができる。後悔によって自分の存在の統一性を壊してはならない。「あれをやらなくて後悔している」「あんなことをするなんて自分は本当に愚かだった」。これは、君が体内に溜め込んでいる自己不信という毒素だ。今日一つの小さな後悔を残し、明日また一つ残せば、やがて非常に多くの不信感が募っていく。そして、自分を失望させることを恐れるあまり、あらゆる行動を躊躇するようになるだろう。
すべての記憶の唯一性
救いなのは、いかなる場合でも、物事が決定的に失われるわけではないということだ。人生において、まったく同じ状況が繰り返されることは二度とない。それを理解すれば、すべての記憶の唯一性が分かるはずだ。なぜ唯一なのか。明日、もし同じことが繰り返されたとしても、君はすでに一日分年老いているからだ。それはもう新しいストーリーではない。二回目に見る映画がその魅力を失うのと同じことだ。
魂のすべてを懸けて自分を信じる
すべての疑念を払い除け、魂のすべて、力のすべてを懸けて自分を信じるなら、君は山をも動かすことができる。許しによって後悔を洗い流すんだ。自分を許し、自分が何をしようとも、どのような振る舞いをしようとも、常に自分を許し続けると約束してくれ。これは、自分自身のルールを設けるなという意味ではない。むしろ、常にできる限り厳格な原則を持つべきだ。私はただ、その原則を破ってしまった時にどうするかを話している。自分を奮い立たせ、自分を許し、自分が定めた道へと戻らなければならない。

ルール - ルール - 例外 - ルール
「ルールの例外」というルールには細心の注意を払うべきだ。一つのルールに対して例外が多すぎると、例外がルールになり、ルールが例外になってしまう。後悔を片付け、疑念を払拭するんだ。どんなに不器用なやり方であっても、自分の成し遂げたことに満足できるという確信を持つことだ。もし目の前に高いはしごがあり、一番上まで登れるだろうかと不安に思うなら、私は君に、目の前の一歩だけを考えることを勧める。
より良くなるための方法
失敗についてもまったく同じことが言える。一歩だけ落ちることもあれば、完全に真っ逆さまに落ちることもある。一歩落ちただけなら、自分がどこから落ちたのか、戻る道が分かっているはずだ。完全に落ちてしまった場合、君には二つのアドバイス(利点)がある。進むべきすべての道が分かっていること、そして、完全に落ちた状態よりもさらに悪くなることなどあり得ないということだ。したがって、君の前方には、もはや向上するためのスペースしか残されていない。
自分を信じること - パートII -
最初にして最も重要な信仰、それは自分を信じることだ。自分を信じるべき根拠は無数にある。ここにいくつか列挙するが、さらに深く探し出し、自分を信じるための有益で必要十分な理由を確立することは君に委ねたい。最初の根拠を挙げよう。手をゆっくりと握りしめて拳を作り、その指がどれほど滑らかでエレガントに連動しているかを観察してみてくれ。君はそれらを一定の力で、自分が決めたシンクロ(同調)した方向へと動かしている。その間、君は瞬きもしている。つまり、ただ指を動かしているだけではない。それとは別に、君は呼吸もしているのだ。
君は驚異的な生命体だ。それが何をしているか知っているか?
要するに、君は環境から酸素を含んだ空気を取り込み、肺で処理し、今動かしている指先を含む体内のあらゆる組織へと送り届けている。そのすべては、君が最後に摂った食事を消化し、体内から毒素を濾過して排出し、生命体を浄化して強化し、栄養素を取り込んでいる間に並行して行われているのだ。実のところ、一つの生命体が営む活動は驚くほどの複雑さであり、君自身がその生きている生命体そのものである。自分が生きているという事実を受け入れる時が来た。君の理性的な思考とは別に、潜在意識が単独で行っているプロセスがあり、それらは極めて完璧に実行されているのだ。

身体と心の統一性
実際のところ、大半のプロセスは潜在意識によって行われており、理性的な思考が担っているのはごく一部にすぎないことを私たちは認めるべきだ。いずれにせよ、君は一つの生命体であり、とてつもないことを成し遂げている事実を受け入れなければならない。「身体」がそれをやっていると言うなら、君自身もその身体の一部であることを知るべきだ。君は身体であり、心でもある。一つのチームであり、統一された全体なのだ。しかし、もし君が今この瞬間に実行しているプロセスの複雑さを知らないのであれば――たとえそれらを自慢に思っていたとしても――私は君にこう問いかけたい。自分には何かができないと、なぜ言い切れるのか。あるいは、これ以上進めないと、どうして分かるのだろうか。
物語を想像してみるんだ
あるいは、それが難しすぎると、なぜ分かるのだろう。君は自分がどれほど多くのことを行っているか、どれほど多くのことができるかさえ分かっていない。自分のポテンシャル(潜在能力)や適応能力を知らないのだから、疑念は捨て去るんだ。自分自身を、何世代にもわたって生き、学び、その教えを遺伝子を通じて君に送り届けてくれた人々の結晶だと考えてみてほしい。自分の祖父母のことだけを考えるのではない。10万年前に生きていた祖先たちのことを考えるんだ。君の血統は、祖先がマンモスを育て、サーベルタイガーと戦っていた時代から脈々と流れている。
血に刻まれた遺産
都市を持つ国など存在せず、村と交易の市場だけがあった時代だ。正義を勝ち取るためには戦わなければならなかった時代である。君の祖先は生き、学び、その血統を君の元へと引き継いできた。紙に1本の線を引き、自分の系図をそのページに書き出してみるんだ。それが自分の血に刻まれていると分かるはずだ。あるいは、その場所に一つの物語を当てはめてもいい。紀元前97,800年、君の祖先が妻と出会った物語から始めよう。彼は何をつき、どこにいたのだろうか。羊飼いか、ハンター(狩猟民)か、それとも他の何かだったのだろうか。彼は月と星の祭りの歓喜の中で、最愛の人に出会った。
物語の終わり?おそらく始まり…
その愛の物語は短いものだったのか、それとも人々が集まり、踊り、共に生きることを決めた次の祭りまで続いたのだろうか。やがて彼らはオークの森の開けた場所を探し、そこに家を建て、愛し合い、3人の子供をもうけた。子供たちは成長し、自分たちの物語を刻むために世界へと旅立っていった。老人たちは、地球が彼らを呼び、その役目を終えて全体へと再び統合されるまで、我が家に留まった。300万年前から始まる君の血統を築き上げるんだ。君はその結果として存在している。これこそが、自分を信じるに足る十分な理由ではないだろうか。
私は君が本当に短い休息を取り、自分が何者であるか、そして自分の生命体の中にどれほどの知識が隠されているかを考えることを強く勧める。
宗教
選ぶこと、どのように選ぶべきか?
宗教について考えてみよう。どれが最高で、どれが真実で、どれが死後の最大の報酬である「永遠の生命」をもたらしてくれるのだろうか。「最高」を決めるにはそれらを比較しなければならない。「真実」を知るにはすべてを生きる必要があるが、私たちには一度きりの人生しかない。死後の生命をもたらすもの、それはすべての宗教だ。死後の生命とは、聖なる精神のようにエネルギーが流れる、すべての生きている生命体に与えられた贈り物なのである。
エネルギーは姿を変えると自然から学んだ
この贈り物は、この惑星のルールであり、生と死のルールだ。生命のエネルギーが肉体を離れた瞬間、物質である君の身体は、サイクル(循環)を再始動させるために、かつて形成された物質へと分解され始める。生命エネルギーは肉体から切り離された後、エネルギーの海へと入り、そこからまた別の物質を身にまとって新しい命のサイクルを始めるのだ。
反語的な思考、そしておそらくそれ以上のもの…
言い換えれば、それは決して終わらない。死とは、私たちが変容へと向かうために通り抜ける一本のゲート(門)にすぎないのだ。ここからは、いくつかのテーマを個別に扱っていく。その一つが、生命エネルギーの意識についてだ。それが意識を持つエネルギーになり得るかどうか。答えは「イエス」だ。生命エネルギーは意識を持つエネルギーになることができ、理性的な自己は、蓄積されたすべての知識を持ったまま次のサイクルへと移行することができる。

意識と自覚について
君は「どうやって?」と問いかけるかもしれない。答えは「自覚(アウェアネス)」を通じてだ。蓄積された知識の自覚、自分自身のエネルギー的な自覚、そして宇宙的な自覚である。いかなるアップグレードも、一定の時間にわたる労働、苦しみ、そして粘り強さによって達成される。高く登れば登るほど、存在論的なテーマと、それらにアプローチするための最適な方法の両方を発見できるようになる。なぜなら、すべての生命体は唯一無二であり、それぞれ固有の発展方法を持っているからだ。
宗教 - つづき -
**天の父について。君はその存在を疑うかもしれない。答えは「イエス」だ。彼は存在する。**彼が数十億の星々、惑星、彗星、そして地球を含む世界を創り出した。そして人間もまた彼が創った。文字通りの意味ではない。創造の最適な要素を掛け合わせることで創り上げたのだ。種としての進化がすべての種族のゴールであり、目標として設定された。そして種族を永続させることが、最低限の義務とされたのだ。
魂の中にある神聖な火花を見つけ出す
天の父は万物の創造主であり、あらゆるものの中に宿っている。だからこそ、君の周りにあるすべてのものには、進化を通じて磨かれた神聖な部分が存在する。実のところ、これこそが君の目的、すなわち「進化」なのだ。意識が存在すること自体が、君の目標が進化であることの証明にほかならない。だから天の父は、個人としても種としても、進むべき道を後に残したのだ。様々な宗教において、最も一般的な儀式の中で語られる言葉に耳を傾ければ、次に進むべきステップが理解できるだろう。
すべての試練から君の力が生まれる
「苦しむ人々は幸いである、天の国はその人たちのものだからである。」苦しみとは、私たちが強くなるための手段だ。それは実のところ、君を鍛え、より賢くするための人生の試練なのである。苦しむ者すべてが天の国を引き継ぐとは書かれていない。つまり、ほんの一部の人々だけが、最後までその道を歩み切ることができるのだ。苦しみには肉体的なものも精神的なものもある。君はそのすべてに立ち向かい、克服し、そこから学び、自らの力に変えなければならない。

真理への旅は努力に値する
宗教の内部において、進むべき方向や道筋は注意深く隠されている。その道は決して心地よいものではない。険しく、長い。だが、それだけの価値はある。残念なことに、年月を経て宗教は商業化してしまった。宗教的な言説には金銭的な側面や現世的な価値が含まれるようになり、今や深く、おそらく修復不可能なほどに歪められている。天の父は、まるで人々が足を運んで欲しいものをねだる「サプライズの自動販売機」のように扱われている。神聖なものを世俗的な場所へ投げ捨てることで、神への冒涜が行われているのだ。
本当に重要な価値観
2000年前、そこには全く異なる言説、異なる儀式、そして異なる概念が存在していた。象徴的なもの、あるいは必ずしも象徴的とは言えない犠牲(サクリファイス)があった。古代の文明は新しい宗教によって破壊され、信者を獲得するための儀式の一部として吸収された。お金を払う信者こそが、教会の財政的な強さを象徴している。すべてが金に帰結する時、核心にある本質的なアイデアはもはや意味を失う。これが今日の教会の姿だ。天の父が求めたのは進化、意識、そして自覚(アウェアネス)だった。しかし、これらには時間、献身、粘り強さ、そして知り、理解し、受け入れるという「作業」が必要不可欠なのだ。
忍耐と知恵がもたらす運命
人間はお金を作り出し、それらを買おうとした方が手っ取り早いと考えた。不運なことに――いや、むしろ幸運なことに――これらの資質はお金で買うことはできない。近道もなければ、不正を働く方法も、楽をできる道もない。これらの資質は自らの手で勝ち取るものだ。自らの富をすべて投げ打ち、修道院へと入った人々の古い物語がある。彼らは進化するためにそこへ行ったのだ。物質的なものがいかに無意味であるかを理解し、自らを進化に捧げることを選んだのである。
自分自身の道へ踏み出す覚悟を持て
重要なことについて瞑想するために、一人で山にこもった隠者(修道者)たちがいる。彼らは狂人などではない。彼らに出会う機会があった者なら、誰もがその事実を認めるはずだ。彼らは意識、信仰、そして自覚を成長させようとしている人間なのだ。君も時間に投資しさえすれば、その一人になることができる。もし今でないなら、おそらく次の生と死のサイクル(輪廻)でのことになるだろう。君には十分な時間がある。それと同時に、時間は一瞬たりとも残されていない。真実を知りたいと願うなら短すぎ、そうでないなら余りにも長すぎる時間だ。
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